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【歴史】兵庫運河 起工式

2007/01/30(Tue)16:39

 水面積が約34haと日本最大級の規模を誇る兵庫運河

 

 奈良時代以来,兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ港を中心に栄えてきましたが,和田岬が船の難所で船の被害が大きかったことから,兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画されました。

 

 1874(明治7)年に着工しましたが工事は難航し,1876(明治9)年に船舶の避難地として新川運河だけが完成しました。


 その後,八尾善四郎などの尽力により,和田岬を迂回するバイパスとして1896(明治29)年1月30日に着工(竣工は,1932年)されましたが,用地買収に困難を極め,日清戦争の地価高騰の煽りも受け,費用は当初の計算の6倍に跳ね上がり,一緒に事業を始めた仲間が運河建設反対に回ったり(地下水が枯れるため)と数々の問題があったが、1899(明治32)年12月に,本線1800m、支線763.6mの兵庫運河を完成した。

 

 兵庫運河を造るために掘削した土砂は苅藻島の埋め立てに使われた。兵庫運河全体が完成しました。このように,幾多の苦難を乗り越えて,民間活力によりこの一大事業が成し遂げられたのです。

 

 八尾善四郎の銅像は,太平洋戦争の金属供出によって兵庫大仏同様、もって行かれそうになりました。けれども、この銅像だけは地元民の懇願によって供出を免れたらしいです。八尾善四郎の銅像は今でも,長田区東尻池新町の兵庫運河を跨ぐ高松橋のたもとに立っています。


 開削から100年余りが経った兵庫運河は,それ自体が貴重な歴史資源でもあるのです。

 

 

 

HP 兵庫運河の今昔物語 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/012/shigaichi/nigiwai/

unga/ungaimamukasi.htm

 

HP 神戸のこと色々  No.42  兵庫運河と八尾善四郎

http://www.geocities.jp/yousan02/kobenokoto-09.htm

 

HP 和田岬のHomePage   新川運河と兵庫運河

http://sapporo.cool.ne.jp/wadamisaki/01unga/unga1.html

 

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