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【歴史】神戸事件

2007/01/11(Thu)21:34

 1868年(慶応四年)1月11日午後1時過ぎ、朝廷より摂津西宮の守備を命じられた岡山藩砲兵隊をふくむ一行が神戸の三宮神社に差しかかろうとしたところタバコ店からフランス兵が出てきてこの行列を横切ろうとした。行列を横切る行為は供割(ともわり)といって武士たちにとってはもっとも無礼な行為であり厳禁とされていた時代である。大砲隊長の滝善三郎はこのフランス兵の割り込みを槍で阻止しようとした。そこへふたりのフランス兵たちが駆けよって仲間を救い出し、タバコ店に引っ込んだあとピストルを手に出てきた。それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだため、鉄砲隊が発砲命令と思い込み、いっせいに射撃を開始してしまったのが事の起こりである。


 それを聞きつけたイギリス公使パークスは激怒、神戸に停泊中の外国艦船に緊急事態発動を告げ、諸外国将兵が駆けつけ大騒動となった。もっともじっさいにはお互いに空へ向けての威嚇射撃だったため、発砲による死者や負傷者は出ていない。

 

 家老の日置忠尚の発砲中止命令によりこの場はことなきを得たかに思えたが、翌日神戸に領事館をもつ6カ国が神戸中心地を占拠、軍事統制下に置いてしまった。そのうえで当時成立したばかりの新政府に事件の責任者の死罪と外国人の安全の保障を求めてきた。死者が出ていないのにこちら側の死罪は納得できないと伊藤博文は最後までパークスと交渉したが、6年前「生麦事件」から薩英戦争にまでなった経緯を恐れた政府は結局この要求を受け入れ、岡山藩にその処罰を要求、「これは武士の義によるものであり、非は外国側にあり」と断わられると、家老の日置を刑事犯にしたてて事情聴取のうえ発砲命令を出した滝善三郎の処刑を決定した。これが「神戸事件」と呼ばれる新政府が初めて直面した外交問題であった。

 

 1868年(慶応四年)2月9日午後11時過ぎ、神戸の永福寺にて外国軍人の検視7名と伊藤をふくむ日本人検視7名の面前、滝善三郎は「切腹の儀」を執り行うことになった。切腹といってもこの頃の作法はじっさいに腹を斬るわけではなく、刀を腹に押し当てたところで介錯人が首を落とすのが決まりだった。だが滝は古来の作法通りじっさいに腹を斬り裂いたのである。検視のひとりである英国海軍士官ミッドフォードは自分の著書「旧日本の物語」の中でその様子を克明に記録している。彼は「ハラキリ」を見たはじめての外国人となったのである。そして英国新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」がこの事件を銅版画入りで報じたため、欧米で「日本のハラキリ」が一大センセーションを巻き起こした。だが当の日本は同年9月元号を「明治」と改め武家社会はいよいよ終焉を迎えていったのである。

     

武士道を欧米に知らしめた岡山藩士、滝善三郎正信(奇人発見伝 第2回より)

    HP  http://www.j-tierra.com/tm/kijin/index.html

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No.230|神戸の地元ネタComment(0)Trackback()

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